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"アヘン"が革命を起こした香港の発展の歴史

更新日:2023年12月13日

経済発展をする国や地域と言うのは、多くのケースにおいて"戦争"のようなプロセスをその"代償"として取り込んでいるところがあります。事実、我が国も2度に渡る世界大戦がそのキッカケとなりましたし他の欧米諸国でも同様のケースが過去には存在しました。

こうしたことは、実はこの香港についても同様の経緯を辿って来たケースがその歴史の中で存在しており、当地の近代史での発展に繋がるキッカケとなったものがあります。今回のBlogでご案内する(香港で発生した)戦争、所謂、『アヘン戦争』が、実はどのような背景をベースとして戦争行為に至るものとなったのか?と言うことを紐解き、更にはそれが与えたその後の経済的発展についても考察して行くこととします。


まず、最初に振り返って見ますとこの戦争は19世紀初頭に勃発した歴史的出来事であり、その中で香港は図らずともその事変の中心となる運命にありました。この紛争、所謂『アヘン戦争』は、アヘン貿易、国際政治、そして植民地主義の考察すると言う様々な点からその後の香港の歴史に深い影響与えることになって行きます。


『アヘン戦争』は英国と中国の間で当時の商材の一つであった"アヘン"の貿易をめぐる対立・摩擦が原因で勃発しました。端的に言うと英国はアヘンを中国に輸出し、その見返りとして多くの中国製品を輸入することで利益を獲得していましたわけですが、強い中毒性を伴うこのアヘンと言う商材は中国社会に深く蔓延することになり、国民全体が"麻薬漬け"になっている惨状に危機感を抱いた当時の清朝政府が、このアヘンの輸出を禁止し摘発を強化する決定を行ったことにキッカケがあります。


そしてこうした清朝政府の決定に不満に持った英国が1839年に"武力衝突"と言う手段を選択し、この『アヘン戦争』が勃発することになったのです。そしてその中で香港は英国にとって"戦略的な拠点"として浮上→選択されることになりました。


攻勢を保つ英国の勢いを中国は抑え切れず、1841年には、英国軍が早々と香港占領を行い、これが理由で香港は英国の植民地となります。もともと香港は南洋貿易においても重要な立地的条件を兼ね備えていたと言うこともあり、瞬く間に香港は英国にとってアジアの貿易上、非常に肝要な位置を占めることになります。

このように、当初の戦争の理由は清朝が国全体での"アヘン漬け"を危惧したものであったとは言え、期せずとして貿易の拠点となって動くことになった香港は、まさにこの『アヘン戦争』によってその後に繋がる国際的な商業ハブとしての地位を確立して行くことになるのです。


こうして最初の『アヘン戦争』は幕を閉じることになる訳ですが、その後15年強の間で再び香港は戦争の中心地になります。それは『第二次アヘン戦争』と称されるもので1856年から1860年の間、またしても香港は利権を巡る大国の思惑に翻弄される運命を辿ることになってしまいました。

結果、最終的には英国と清朝との間で"北京条約"が締結されることになり、これを機として香港は正式に英国によって租借され、以来99年間と言う条件下で英国との租借期間を経ることになって行きます。ここで香港が幸運だったと言うのは、当時最先端のノウハウを有していた英国から教えを得た財産があり、そのお陰で他の中国地域とは比較にならないほどのスピードで発展を遂げるに至りました。


香港が返還後も国際的な金融、商業、文化の中心地の一つとして優位な地位を保っていられるのも、歴史的な事由の中を懸命に生きて来たことに他ならない訳ですが、その歴史から培って来た精神と言うのは現代の香港社会の中にも深く受け継がれている要素と言っても良いことでしょう。

一つの戦争が招いた運命ではありますが、『アヘン戦争』が齎した当地へのインパクトは非常に大きく、単なる歴史の一部以上のものがあります。この戦争を理解しないことには、今日の香港を形成する重要な要素の1つを欠けて理解すると言うことに等しく、我々外国人はその論点からもこの稀有なテリトリーを見る必要もあるかも知れません。

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