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かつて"日本の一部であった"とも言える香港

更新日:2024年09月13日

日本が支配していた時代の香港は、第二次世界大戦中の1941年12月から1945年8月までの約3年8ヶ月間に及びます。この間、香港は日本軍の占領下にあり、多くの歴史的・社会的な変化が生じる時代でもありました。日本と香港の歴史を理解する上では、かつてこの都市が大きな戦争(第二次世界大戦)を切っ掛けとして生じた数々の事実を知って置くことはとても重要なことかも知れません。

以下はその論点から両者が辿ることになったこの期間の出来事とその背景についてご紹介することにします。

時は1941年12月8日、日本は真珠湾攻撃を皮切りに、東南アジア全域に侵攻を開始しました。その一環として香港も攻撃の標的となりましたが香港は当時、英国の植民地であったこともあり、その対決の図式と言うのは日本vs英国軍(+連合軍)と言うものでありました。結果として記述すると、この勝負は日本軍の圧倒的な勢力の前に英国がひれ伏すこととなり、12月25日には「降伏」と言う厳しい現実を香港は迎えることになります。以降、この日はその後「ブラック・クリスマス」として呼ばれるようになり、香港が初めて日本の支配下に置かれることになったのです。

当然のことながら日本支配の期間中、否応無く香港は政治・経済、或いは社会全体として翻弄されて行くこととなり、日本の与えたその"功罪"について考えて行くことにします。

●政治面
日本が香港を直轄地として統治を行うこととなり、そこには日本軍の指揮官が当地の"最高権力者"に就任することになります。当然のことながら、日本政府は香港の行政機構にも手を加えることになり、日本語を公用語として導入、学校教育においても日本語教育の義務化が制定された為、当時の学生たちは日本語を学ぶことを強制させられることになりました。

 ●経済面
日本の支配によって香港の経済は大きな打撃を被りました。その原因は日本軍が香港の資源を戦争遂行のために利用し、多くの物資を日本本土に送っていたことに起因しています。結果、その反動で香港域内では物資不足が深刻化し、食料や生活必需品の価格が急騰しました。また、日本の占領下で香港の銀行や香港経済を牛耳っていた英国系の企業の多くが閉鎖や資産没収→日本の管理下に処される、と言った処遇に追い込まれ経済活動は甚大なダメージを被ることになります。

 ●社会面
社会面に於いても、香港市民の生活は非常に厳しいものへと変化することになります。上述した物資等の不足に加え、日本軍による厳しい言論の自由や集会の自由が制限されることで香港市民は圧政に苦しめられることになります。具体的な事例を挙げると日本軍は反日的な行動を厳しく取り締まり、多くの市民が投獄や処刑されるなど、抑圧的な状況が続くことになりました。また、日本軍は香港の人口削減を図り、多くの住民が強制的に中国本土に送還されたりもしました。こうした影響の為、香港の人口は大幅に減少することになり、社会構造にも大きな"負の遺産"を残すことになったのです。

●日本支配の功罪
上述の項目を辿って行くと、端的には日本の"傍若無人振り"によって香港(及び香港市民)は蹂躙され尽くされたかのように映りますが、日本がもたらした影響と言うのは決してネガティブな面ばかりではありませんでした。例えば、日本による統治期間中に、香港のインフラ整備を進められ、交通網や通信網がこの機に整備されたり、日本の強い支配を経験することで、逆に香港市民自身の中に一種のナショナリズム=民族意識が芽生えることとなり、更には民族の源流である中国本土との結びつきを強化して行くと言う一面も生まれて来ることになります。

(以下は後日談的なものとなりますが)香港が日本の一部であったこの"3年8ヶ月"と言う時代が当地に与えたものは、綺麗事では無くやはり戦争らしい傷跡が残ることになりました。従って(日本が敗戦を迎えた)後の香港の復興への道のりと言うのは決して平坦なものでは無かったと言われています。

当地を支援した英国でさえも多くの犠牲を払う必要があったのは事実であり、現在の両者(日本&香港)の関係を俯瞰すると、その時々に横たわっていた課題・問題を、当時の関係者が努力し克服して来たことが垣間見えるような気がします。我々はそうして掴んで来た両者の平和的関係を"当たり前"とは取らず、むしろこの困難を乗り越えて来た上の関係であると言うことを忘れてはならないでしょう。

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